「黄金の国ジパング」と聞けば、日本のことを思い浮かべる人は多い。13世紀、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロが『東方見聞録』で紹介したこの国は、莫大な金を産出し、王宮の屋根や床まで黄金で飾られていると伝えられた。ヨーロッパの人々にとって、ジパングは東の果てに存在する、富と神秘に満ちた理想郷だった。
しかし、実際の日本は本当にそれほど黄金にあふれていたのか。マルコ・ポーロ自身は日本を訪れたのか。そして、岩手県平泉に現存する中尊寺金色堂は、ジパング伝説の誕生に関係していたのだろうか。2026年現在確認できる歴史資料や文化財記録、研究者の見解をたどると、そこには日本の金産出の歴史、奥州藤原氏の繁栄、ヨーロッパの地理的認識が複雑に絡み合った実像が浮かび上がる。
【歴史の出発点】黄金の国ジパングとは?マルコ・ポーロが記した驚異の島
黄金の国ジパングとは、13世紀末に成立したマルコ・ポーロの旅行記に登場する、東方の海上に位置する黄金豊かな島国である。一般的には日本を指す名称とされ、イタリア語系の表記ではZipangu、英語の古い表記ではCipanguなどと記される。
この記述がヨーロッパに与えた影響は大きかった。当時のヨーロッパでは、東アジアの地理や政治、経済に関する情報は限られていた。中国やインドの向こう側にある島国について、具体的な情報を得る機会も少なかったのである。
マルコ・ポーロは何を伝えたのか
マルコ・ポーロは1254年ごろ、ヴェネツィア共和国の商人の家に生まれたとされる。父ニッコロと叔父マッフェオも商人であり、彼らは東方への交易活動を行っていた。
1271年、マルコ・ポーロは父と叔父とともに東方への旅に出発する。元朝の皇帝クビライ・ハンの宮廷に到達し、中国を中心とするアジア各地について見聞を重ねた。1295年にはヴェネツィアに帰還したとされる。
その後、1298年にジェノヴァで捕虜となり、同じ牢獄にいた作家ルスティケロ・ダ・ピサに自身の経験を語った。この口述をもとに成立した作品が、現在『東方見聞録』として知られる旅行記である。厳密にはマルコ・ポーロ自身が原稿を書き上げたわけではない。
重要なのは、ジパングの描写が本人の直接体験として書かれているわけではない点だ。マルコ・ポーロは、ジパングについて、その国を知る人々から聞いた話であることを文章中で示している。黄金の宮殿の描写は、現地調査の報告ではなく、伝聞を含む地理情報だったのである。
『東方見聞録』に登場する黄金の島
国立情報学研究所のディジタル・シルクロード・プロジェクトが公開する東洋文庫所蔵の写本資料では、ジパングについての記述を実際に確認できる。
その内容によると、ジパングはマンジ(中国南部の地域)の東方約1500マイルの沖合に位置する大きな島とされている。住民は独立した王の支配下にあり、外国に従属していない。そして、島には非常に大量の金が存在し、王が金の持ち出しを厳しく制限しているため、外部の商人が容易に訪れることもできないと説明されている。
加えて、島の支配者が所有する宮殿について、屋根や内部の装飾に大量の黄金を使用した豪華な建物として描写している。
ここで注目したいのは、金が多いという情報だけではなく、金を国外に持ち出せないという設定まで含まれていることだ。交易によって外部に流通しないため、国内には金が蓄積し続けるという物語になっている。こうした構成が、ヨーロッパの読者にジパングを現実離れした富の国として印象づけた。原典の記述そのものが、黄金伝説の形成過程を考える重要な手掛かりとなる。
【最大の疑問を検証】ジパングは本当に日本?マルコ・ポーロは日本に来たのか
黄金の国ジパングは日本だったのか。この疑問に対する一般的な歴史学上の理解は、日本を指す地名だったというものだ。ただし、マルコ・ポーロ本人が日本列島に到達したことを示す確かな記録はない。
マルコ・ポーロが日本を訪問していない理由
マルコ・ポーロの旅行記に記録された旅程を確認すると、彼が活動した中心地域は元朝の支配下にあった中国や、その周辺のアジア地域である。
彼がジパングについて記したのは、日本に上陸して自ら観察したからではなく、中国方面で得た情報を旅行記に取り込んだからだと考えられている。日本に関する記述の中にも、現地の人々から聞いた話に基づくことを示す表現がある。
また、当時の東アジアでは、日本と元朝の間に緊張関係が存在した。クビライ・ハンは1274年と1281年に日本への遠征を実施したが、いずれも日本を征服するには至らなかった。
マルコ・ポーロが元朝の宮廷にいた時期は、こうした対日遠征が計画・実施された時代と重なる。日本についての情報が元朝の宮廷や交易関係者を通じて伝わった可能性は十分にある。
ただし、特定の人物が金色堂を見て、その話を直接マルコ・ポーロに伝えたという証拠は残っていない。
ジパングの記述には誇張があったのか
『東方見聞録』には、ジパングの王宮が黄金で豪華に飾られているという描写がある。しかし、当時の日本に存在した金色の建築物と照らし合わせると、記述のすべてをそのまま史実と受け取ることは難しい。
日本では確かに金の採取が行われ、寺院や仏像、工芸品に金が使用されていた。一方、国土全体に金があふれ、誰もが大量の黄金を自由に使えるような社会だったわけではない。
加えて、マルコ・ポーロの旅行記は、複数の言語による写本が伝わる過程で表記や内容に違いが生じている。現在の読者が接する文章も、本人の肉声をそのまま再現したものではない。
したがって、ジパング伝説は、実在した日本の金文化を背景にしながら、伝聞、地理的な誤認、物語的な誇張が重なって成立したものと理解するのが妥当だ。
【黄金文化の実像】中尊寺金色堂と奥州藤原氏はジパング伝説のモデルだったのか
ジパング伝説と日本の歴史を結びつけるうえで、特に注目されるのが岩手県平泉町にある中尊寺金色堂である。
現在も保存されているこの建築物は、平安時代後期の日本に、建物そのものを金で装飾する高度な技術と豊かな財力が存在したことを示している。
1124年に建立された金色堂の驚くべき装飾
中尊寺金色堂は、1124年に奥州藤原氏の初代当主・藤原清衡によって建立された阿弥陀堂である。
中尊寺の公式案内によると、金色堂は屋根を除く内外の大部分が金箔で覆われており、螺鈿などの装飾技法も用いられている。堂内には阿弥陀如来を中心とする仏像群が安置され、平安時代の仏教美術の高度な技術を今に伝えている。
建物の規模は一辺約5.5メートル、高さ約8メートル。巨大な宮殿ではないものの、内部まで黄金で装飾された建築物として、世界的にも珍しい文化財である。
金色堂が建立された目的は、単なる権力の誇示ではなかった。藤原清衡は、東北地方で長く続いた戦乱で亡くなった人々の霊を慰め、仏教の理想とする平和な世界を実現しようとした。金色堂は、阿弥陀如来のいる極楽浄土を現世に表現するための宗教施設だったのである。
奥州藤原氏が築いた平泉の黄金文化
奥州藤原氏は、初代の藤原清衡から、基衡、秀衡、泰衡へと続く一族である。11世紀末から12世紀にかけて、現在の東北地方を中心に強い政治的・経済的基盤を築いた。
平泉は単なる地方都市ではなかった。中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡など、仏教思想に基づく寺院や庭園が整備され、政治・文化の中心地として発展した。
ユネスコの世界遺産センターは、平泉の遺跡群について、11~12世紀に日本北部の政治・行政の中心地として京都に匹敵する存在感を持っていたことを説明している。また、奥州藤原氏が築いた寺院や庭園は、浄土思想を現実の空間として表現したものと評価されている。
平泉の繁栄は、仏教文化だけでなく、金を含む東北地方の資源、交易、政治的な支配力によって支えられていた。黄金は宗教的な荘厳さを表現する素材であると同時に、地域の富を示す重要な資源でもあった。
中尊寺金色堂がジパングのモデルだったという説の真相
中尊寺金色堂とジパング伝説は、しばしば関連づけられる。実際、両者には黄金をふんだんに使用した建築物という共通点がある。
ただし、金色堂がマルコ・ポーロの記述の直接的なモデルだったと証明する史料は存在しない。
金色堂の建立は1124年であり、マルコ・ポーロが生まれるより130年ほど前に完成している。年代的には伝説の背景となり得るが、それだけで両者の直接的なつながりを証明することはできない。
加えて、金色堂は屋根まで金で覆われた宮殿ではなく、仏教的な目的を持つ比較的小規模な阿弥陀堂である。『東方見聞録』に描かれた宮殿とは、建築の用途も規模も異なる。
したがって、金色堂は日本に実在した黄金文化を示す代表的な証拠ではあるものの、ジパング伝説の直接的なモデルだったと断定することはできない。実在する黄金建築と、ヨーロッパに伝わった黄金の宮殿の物語は、区別して考える必要がある。
【史料で比較】ジパング伝説を構成する人物・歴史・文化の関係一覧
黄金の国ジパングを正確に理解するには、マルコ・ポーロの旅行記、日本の金産出、平泉の黄金文化、ヨーロッパの探検史を一つの流れとして整理すると分かりやすい。
以下は、主要な人物や史跡、出来事の関係をまとめたものだ。
| 人物・出来事 | 年代 | 史実とジパング伝説との関係 |
|---|---|---|
| 陸奥国での金産出 | 749年 | 日本における金産出の歴史を示す重要な記録。東北の金が東大寺大仏の鍍金に使用された。 |
| 中尊寺金色堂 | 1124年 | 藤原清衡が建立。金箔や螺鈿を用いた黄金文化の代表例。 |
| マルコ・ポーロの東方旅行 | 1271~1295年 | 中国などを訪問。日本については伝聞情報を旅行記に記録した。 |
| 『東方見聞録』の成立 | 1298年ごろ | ジェノヴァでルスティケロがマルコ・ポーロの話を書き留めた。 |
| コロンブスの第一次航海 | 1492年 | アジアの東方にあると考えられたジパングを含む地理的想像が大航海時代の背景となった。 |
| 佐渡の金銀山の本格的開発 | 1601年以降 | 日本の金産出を支えた代表的な鉱山。江戸幕府の財政にも貢献した。 |
| 佐渡島の金山の世界遺産登録 | 2024年 | 日本の伝統的な金生産技術と社会システムが世界的に評価された。 |
この表から分かるのは、ジパング伝説を構成する要素が、同じ時代に一斉に存在したわけではないということだ。金色堂は12世紀、マルコ・ポーロの記録は13世紀、佐渡の大規模な金山開発は主に近世に属する。
それぞれの時代を混同せずに見ることで、日本の黄金文化が長い時間をかけて発展してきたことが理解できる。
【意外な異説】ジパングは日本ではない?Japanの語源と由来も検証
ジパングは日本を指すという説明が広く定着しているが、歴史研究には別の見解も存在する。なかでも注目されるのが、歴史研究者の的場節子による異説である。
ジパング日本ではない説とは何か
2007年に吉川弘文館から刊行された的場節子の著書『ジパングと日本―日欧の遭遇』では、マルコ・ポーロが記したジパングを日本列島とする従来の理解に再検討を加えている。
同書では、スペイン関係史料や古地図、南シナ海の交易情報などを分析し、ジパングがフィリピンのルソン島やビサヤ諸島周辺の島々を指していた可能性を論じている。
この研究の特徴は、ジパングという名称だけで場所を特定するのではなく、当時の航路、金の流通、ヨーロッパ人が入手できた東南アジアの情報まで考慮している点にある。
また、ハーバード大学のイタリア・ルネサンス研究機関に掲載された日本のイエズス会美術史に関する研究論文でも、この異説が紹介されている。同論文は、ジパングを日本と結びつけたのはイエズス会士ジョアン・ロドリゲスだったという的場の議論にも触れている。
ただし、これは従来の日本説を完全に覆す決定的な証明ではない。一般的な歴史・地理の解説では、現在もジパングは日本を指す名称として扱われている。
重要なのは、ジパングという言葉が最初から現代の日本列島を正確に示す地理情報だったとは限らないことだ。中世の旅行記では、遠方の島々に関する情報が混ざり合い、地理的な位置関係も不正確になることがあった。
Japanという英語名はどこから来たのか
日本の英語名Japanとジパングの関係を理解するには、日本という国号の成立と、中国語を経由した発音の変化を知る必要がある。
日本の国号である「日本」は、太陽が昇る方向に位置する国という意味を持つ。古代には「倭」という呼称も使用されていたが、7世紀末から8世紀初頭にかけて日本という国号が成立し、8世紀初めには対外的にも認知されるようになった。
日本語では「ニッポン」「ニホン」と読むこの漢字表記は、中国語の歴史的な発音を通じて海外にも伝わった。マルコ・ポーロのCipanguも、日本国を表す中国語の音に由来する表記と考えられている。
一方、現在の英語のJapanは、単純にイタリア語のZipanguがそのまま変化したものではない。中国語の発音を背景に、南方中国沿岸の言葉やマレー語のJapang、Japunなどを経由し、ポルトガル語のJapãoなどを通じてヨーロッパに広まったと説明されている。
つまり、日本、ニッポン、ジパング、Japanは、歴史的な発音の伝播によって結びついた名称なのである。
日本の国号と黄金伝説は別の歴史的要素
ここで注意したいのは、Japanという名称の由来と、黄金の国というイメージの由来は同じ問題ではないということだ。
Japanという名称は日本という国号の発音が海外に伝わった結果である。一方、黄金の国というイメージは、日本の金産出や寺院建築、海外交易の情報がヨーロッパに伝わる過程で形成されたものと考えられる。
名称の語源と、国の富に関する伝説を分けて考えることが、歴史を正確に理解するためのポイントだ。
【大航海時代への影響】コロンブスとジパング、黄金の国が欧州に広まった理由
黄金の国ジパングの伝説は、単なる中世の不思議な物語では終わらなかった。その情報はヨーロッパの地理的想像力を刺激し、15~16世紀の大航海時代における東方探検への関心とも結びついていく。
ヨーロッパの人々が黄金の国に憧れた背景
中世ヨーロッパでは、東方は香辛料、絹織物、宝石、金などを産出する魅力的な地域として認識されていた。
交易によって利益を得ようとする商人や、アジアとの外交・宗教的な接触を目指す人々にとって、東方の情報は極めて重要だった。
『東方見聞録』が支持された理由は、単に珍しい国の話が並んでいたからではない。交易品や各地域の経済、政治、移動経路など、実用的な情報も含まれていたためである。
ジパングはその中でも特別な存在だった。金が豊富に存在するという情報は、商人だけでなく、王侯貴族や探検家の関心も集めた。
また、遠方の国に関する情報は、写本の複製や翻訳、地図製作者の活動を通じて広がった。ヨーロッパで東アジアへの関心が高まるにつれ、ジパングは実際の日本を示す地名であると同時に、未知の富を象徴する存在にもなった。
コロンブスはジパングを目指して航海したのか
ジパング伝説と結びつけられる歴史上の人物として、クリストファー・コロンブスがいる。
1492年、コロンブスはスペイン王室の支援を受けて大西洋を横断し、カリブ海の島々に到達した。当時の彼は、地球の大きさやアジアまでの距離について現在とは異なる認識を持っていた。
メトロポリタン美術館の歴史解説によると、コロンブスはマルコ・ポーロの旅行記に登場するCipangu、日本の黄金の島に強い関心を抱き、アジアの富を求めて航海していた。
しかし、ここには研究上の注意点がある。ハーバード大学の研究論文では、コロンブスが所有していたとされる『東方見聞録』の書き込み入りの本は、1498年の第2回航海から帰還した後に入手した可能性が指摘されている。
そのため、1492年の最初の航海が、マルコ・ポーロの旅行記を読んだことだけによって決定されたとする説明には疑問が残る。
それでも、コロンブスが後年にジパングを含むアジアの地理情報を重視していたことは、彼の探検史を理解するうえで重要である。
黄金の国への期待がアメリカ大陸の探検にもつながった
コロンブスが1492年に到達したのは日本ではなく、カリブ海の島々だった。しかし、本人は当初、アジアの東端に到達したという認識を持っていた。
到達した島々では、住民が身につけていた金製品などが目に留まり、コロンブスは周辺地域に金が存在するかを繰り返し尋ねた。
メトロポリタン美術館の解説は、こうした金への期待が、後のアメリカ大陸における探検や植民地化の動きにもつながったことを説明している。
もちろん、ジパング伝説だけが大航海時代を引き起こしたわけではない。香辛料貿易、航路開拓、国家間の競争、宗教的な目的など、複数の要因が重なっていた。
それでも、東方に無尽蔵の黄金を持つ国があるというイメージは、未知の地域へ向かう人々の期待を膨らませた。日本の存在をヨーロッパの地理的想像力に刻んだという意味で、ジパング伝説の影響は小さくなかった。
【本当の黄金の国】日本の金産出の歴史とジパング伝説の真相
ジパング伝説の背景には、日本列島に実際に金が産出していたという歴史的事実がある。日本の金文化はマルコ・ポーロの時代だけに突然現れたものではなく、奈良時代から近世にかけて長い発展を遂げてきた。
749年、日本で金が産出した歴史的な出来事
日本政府広報オンラインの金文化に関する解説によると、日本で金の産出が確認された重要な出来事は749年の陸奥国での金の発見である。
現在の宮城県遠田郡涌谷町周辺にあたる地域で産出した金は、奈良の東大寺大仏の鍍金に利用された。大仏は752年に完成しており、国家的な仏教事業を支える資源として東北の金が活用されたことが分かる。
この出来事は、日本の金産出史における大きな転換点だった。金は単なる装飾品ではなく、国家事業や仏教文化を支える重要な資源だったのである。
さらに760年には、日本最初の金貨とされる開基勝宝が鋳造された。金が宗教的な装飾だけでなく、貨幣や経済活動にも関わっていったことを示す歴史的な記録である。
砂金採取から鉱石採掘へ、日本の金産出はどう変化したか
古代から中世にかけて、日本の金は主に河川などから採取する砂金として産出していた。
政府広報オンラインの解説では、749年の金産出から16世紀半ばに金鉱石からの採掘が本格化するまでの約800年間に、推計約100トンの金が産出したと紹介されている。
これは年間生産量ではなく、長期間にわたる累積的な推計である。金が豊富だったという伝説の背景には、こうした長い産出の歴史が存在していた。
16世紀半ば以降は、鉱石から金銀を取り出す技術が広まり、各地の大名が領国内の鉱山開発を進めた。武田信玄の甲州金など、金の産出は戦国大名の経済力や軍事力とも結びついていく。
佐渡金山が証明する日本の黄金文化
日本の金産出を語るうえで欠かせないのが新潟県の佐渡島である。
佐渡では平安時代から砂金採取が行われていたとされ、16世紀末から17世紀にかけて金銀山の本格的な開発が進んだ。特に1601年に相川で大規模な金銀鉱脈が発見されたことは、その後の発展を大きく左右した。
1603年に江戸幕府が成立すると、佐渡の鉱山は幕府の直轄管理下に置かれ、金銀の産出は幕府の財政を支える重要な収入源となった。
日本政府の広報資料では、17世紀前半の日本は世界の金産出量の約20%を占めていたと紹介されている。ただし、この数字は17世紀の話であり、マルコ・ポーロが生きた13世紀の日本の生産比率を示すものではない。
佐渡の金銀山は1989年に操業を終了した。長い採掘の歴史と伝統的な手作業による生産技術、鉱山社会の文化的価値が評価され、2024年7月には「佐渡島の金山」がユネスコ世界文化遺産に登録された。
この歴史を振り返ると、日本が長い期間にわたって金を産出し、その資源を宗教、政治、経済に活用してきたことは明らかだ。
ジパング伝説の真相は「史実と誇張の融合」
ここまでの史料を総合すると、黄金の国ジパングには、実在する日本の歴史と、海外で膨らんだイメージの両方が含まれていたことが分かる。
日本には749年の金産出という記録があり、12世紀には中尊寺金色堂のような金箔を用いた建築物が存在した。加えて、東北地方や佐渡をはじめとする各地で金の採取と鉱山開発が行われてきた。
一方、金が無尽蔵に存在する、王宮が全面的に黄金で覆われているといった表現は、日本全体の実態を正確に描写したものとはいえない。
また、金色堂とマルコ・ポーロの記述を直接結びつける同時代の史料もない。ジパングの場所については日本説が一般的であるものの、南シナ海の島々を候補とする研究も存在する。
つまり、ジパング伝説の核心は、日本に実在した金の文化を土台として、遠い異国に対するヨーロッパの期待や伝聞が加わり、黄金の理想郷という物語へ発展したことにある。
【よくある疑問を解決】黄金の国ジパングに関するよくある質問(FAQ)
Q1:黄金の国ジパングとは、現在のどこの国ですか?
A1:一般的には現在の日本を指す地名とされています。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に登場するCipangu、Zipanguなどの表記がジパングの由来です。ただし、南シナ海の島々を候補とする異説もあります。
Q2:マルコ・ポーロは日本に来たことがありますか?
A2:日本を訪れたことを示す確かな史料はありません。中国や元朝の宮廷で得た情報などをもとに、日本についての記述をまとめたと考えられています。
Q3:中尊寺金色堂がジパング伝説のモデルだったのですか?
A3:直接の関係を証明する史料はありません。1124年に藤原清衡が建立した金色堂は、実際に金箔で装飾された建築物ですが、マルコ・ポーロがその存在を知っていたという証拠は確認されていません。
Q4:日本は本当に世界有数の金産出国だったのですか?
A4:はい。日本では749年に陸奥国で金が産出した記録があり、近世には佐渡金山などで大規模な採掘が行われました。政府広報資料によると、17世紀前半には世界の金産出量の約20%を日本が占めていたとされています。
Q5:ジパングとJapanは同じ語源ですか?
A5:歴史的には関連しています。どちらも「日本」という国号の中国語の歴史的な発音を背景に成立した名称です。ただし、Japanは南方中国沿岸の言葉やマレー語、ポルトガル語などを経由してヨーロッパに広まったと考えられています。
Q6:コロンブスは黄金の国ジパングを探していたのですか?
A6:コロンブスはアジアの富に関心を持ち、ジパングを含む東方の地理情報を重視していました。ただし、1492年の航海がマルコ・ポーロの旅行記だけを直接の動機として行われたと断定することはできません。
Q7:ジパングは実在しない架空の国だったのですか?
A7:ジパングという名称で紹介された地域の位置や描写には不確かな部分がありますが、一般的には日本を指す名称と理解されています。日本の金産出や黄金文化は実在した歴史的事実であり、国全体が黄金で満たされていたという部分が伝説的な誇張に当たります。
まとめ:黄金の国ジパングの正体は日本の実在した黄金文化と中世の幻想だった
黄金の国ジパングは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』によってヨーロッパに広まった、東方の黄金豊かな島国である。一般的には日本を指す名称とされているが、本人が日本を訪問した事実は確認されておらず、その記述は伝聞に基づくものだった。
一方、日本には749年の陸奥国での金産出をはじめ、東北地方の金文化、奥州藤原氏が築いた平泉の繁栄、1124年に建立された中尊寺金色堂など、黄金の国というイメージを支える実際の歴史が存在する。
加えて、近世には佐渡金山などの大規模な鉱山開発が進み、17世紀前半には日本が世界有数の金産出国となった。こうした歴史を踏まえれば、日本がヨーロッパの人々に黄金の国として認識された背景も理解しやすい。
【プロの結論】
ジパング伝説を読み解くうえで大切なのは、黄金の宮殿が実在したかどうかだけに注目しないことだ。伝説を生み出した背景には、東アジアの交易情報、日本の鉱山資源、平泉の宗教文化、そして中世ヨーロッパの未知の世界への憧れがあった。
また、歴史的な説を見極める際には、次の3点を判断基準にするとよい。
- 一次史料との整合性:『東方見聞録』の原文や同時代の記録に、実際に何が書かれているかを確認する。
- 年代と地理の一致:金色堂の建立年代、日本の金産出、マルコ・ポーロの旅行時期を混同しない。
- 研究上の定説と異説の区別:日本説と南シナ海の島々を候補とする異説のように、根拠や研究上の位置づけを分けて理解する。
2026年現在も、中尊寺金色堂や平泉の文化遺産、2024年に世界遺産となった佐渡島の金山は、日本の黄金文化を知るための貴重な歴史的証拠である。
黄金の国ジパングは、すべてが事実だったわけでも、すべてが架空だったわけでもない。実在した日本の豊かな金文化と、遠い国に思いをはせた中世ヨーロッパの想像力が交差して生まれた歴史的な物語なのである。
その伝説をたどることは、日本の知られざる資源史と、世界が日本をどのように発見し、理解してきたのかを知ることにもつながっている。