テレビ朝日系の「じゅん散歩」で、自由気ままな街歩きと独特のユーモアを披露する高田純次。2026年11月現在79歳を迎えた高田だが、若い頃は現在の「テキトー男」というイメージとは異なる人生を歩んでいた。大学受験に失敗し、東京デザイナー学院でグラフィックデザインを学び、宝石会社ではジュエリーデザイナーとして勤務。芸能界に本格的に進んだのは、なんと30歳のときだった。
実際に高田純次の若い頃の写真を確認すると、20歳の学生時代の姿や、芸能界に入る前の意外な経歴が見えてくる。本人のインタビューでは、大学受験での挫折、自由劇場との出会い、会社員生活を捨てて劇団東京乾電池に入った経緯も明かされている。若い頃は本当にイケメンだったのか、なぜ30歳で人生を変えたのか。そして79歳になった現在、どのような活動を続けているのか。写真と本人の証言を軸に、その歩みを振り返る。
【写真で検証】高田純次の若い頃はイケメン?20歳の学生時代の姿
高田純次の若い頃を知るうえで注目したいのが、雑誌『POPEYE』のウェブ版が2022年8月に公開したインタビュー企画「二十歳のとき、何をしていたか?」だ。
この記事には、東京デザイナー学院2年生だった20歳の夏に撮影された本人の写真が掲載されている。芸能界で人気を確立する前の、学生時代の高田を確認できる貴重な記録だ。
写真の背景にあるエピソードも興味深い。当時の高田は中古バイクに乗り、日本縦断を目指して東京から北海道へ向かった。しかし、屈斜路湖付近でバイクが故障。その後も調子が戻らず、大阪府枚方市の友人を訪ねたあと、東京へ引き返したという。
本人は当時の旅について、なぜ出発したのか今となってはよく分からないと振り返っている。現在の軽妙なトークにも通じる、肩の力が抜けた回想だ。
若い頃はイケメンだった?写真から分かること
「高田純次は若い頃イケメンだった」という検索が多い背景には、現在の親しみやすいタレント像と、若い頃の写真とのギャップがある。
ただし、イケメンという評価は主観的なものだ。公開されている20歳当時の写真は、芸能人として作り込まれた宣材写真ではなく、学生時代の旅の記録として紹介されたもの。写真を通じて若き日の姿を確認できること自体に価値がある。
また、現在の高田には、ファッションや小物に対する独特のセンスがある。グラフィックデザインを学び、宝石のデザインにも携わった過去を考えると、若い頃から美的感覚を磨く環境にいたことが分かる。
若い頃の写真を探す場合は、『POPEYE』の2022年8月公開記事や、小学館の『サライ』2023年9月号のインタビューが参考になる。特に学生時代の写真と本人の回想を一緒に確認できる点が魅力だ。
【高校時代・大学受験】成績優秀だった高田純次が東京デザイナー学院に進んだ理由
現在の自由奔放なキャラクターからは想像しにくいが、高田純次は学生時代、勉強が得意だった。
1947年1月21日、東京都に生まれた高田は、都立府中高校に進学した。小学・中学時代には成績が良く、近所でも勉強のできる子として知られていたという。
小学館『サライ』の2023年の本人インタビューでは、当時の自分について「神童というのは言い過ぎだけど、成績は抜群に良かった」と振り返っている。
大学受験では合計15校に挑戦するも不合格
高校時代の高田には、大学へ進学して会社員になるという将来像があった。父親が大手企業のサラリーマンだったこともあり、当初は父親のように安定した会社勤めをするつもりだったという。
ところが、大学受験で大きな挫折を経験する。
本人の『サライ』での回想によると、高校3年生のときに5校を受験したものの、すべて不合格。一浪してからは美術大学も視野に入れ、さらに10校を受験したが、結果は再び全滅だった。
本人は大学受験について、次のように語っている。
「結局、高校の同級生で大学に行けなかったのは、僕だけ。それで大学進学は諦めて、東京デザイナー学院のグラフィックデザイナー科に入った」
この言葉からは、単に受験に失敗したというだけではなく、周囲が大学へ進学していくなかで、自分だけが別の道を選ぶことになった悔しさが伝わる。
東京デザイナー学院でグラフィックデザインを学ぶ
大学進学を断念した高田が選んだのは、御茶ノ水にあった東京デザイナー学院のグラフィックデザイナー科だった。
当時は横尾忠則、宇野亜喜良、田名網敬一といったクリエイターが活躍し始めた時期。高田自身も、絵を描くことが昔から得意で、グラフィックデザイナーやイラストレーターという職業に憧れていた。
授業については、最初だけ出席して、その後は近くの喫茶店やジャズ喫茶で友人と過ごしていたと本人はユーモラスに語っている。それでも専門学校はきちんと卒業。1968年に東京デザイナー学院を修了した。
本人は後年、この進路変更について「これが今の仕事へと続く人生の分岐点だった」と振り返っている。
大学受験の失敗によって選んだデザインの道が、後のジュエリーデザイナーとしての仕事につながり、さらに演劇や芸能活動にも結びついていった。最初の挫折が、結果的に高田の個性を形作る重要な経験になった。
【自由劇場との出会い】演劇青年だった20代と劇団東京乾電池への道
高田純次の人生を語るうえで欠かせないのが、20代で経験した演劇活動だ。
東京デザイナー学院を卒業した後、高田はアルバイトなどをしながら生活していた。自動車教習所に来た人の写真を撮影する仕事なども経験したという。
演劇に興味を持つきっかけとなったのは、先輩に頼まれて劇団のポスターを描いたことだった。その後、人手不足から舞台に出演することになり、通行人役を務めた。これが本人にとって初舞台だった。
自由劇場の「マクベス」に衝撃を受ける
初舞台の後、先輩に誘われて観劇したのが、自由劇場による「マクベス」だった。
自由劇場は、串田和美や吉田日出子らによって結成された劇団で、当時のアングラ演劇を代表する存在の一つだった。
高田は舞台の演出や俳優の動きに強い衝撃を受けた。小さな劇場の空間で、俳優たちが自由に動き回る演劇の世界に魅了されたという。
本人は『POPEYE』のインタビューで、自由劇場の舞台を見たことについて「あれを見ちゃったのが運の尽きだね(笑)」と語っている。
その後、自由劇場の研究生募集を知り、応募。1971〜72年ごろに研究生として演劇を学ぶことになった。
イッセー尾形らと「うでくらべ」を結成
自由劇場での研究生期間を経た高田は、演出家の森田雄三や俳優のイッセー尾形らと「うでくらべ」という劇団を結成した。
しかし、ベケットの戯曲を上演しても客が集まらず、劇団は長続きしなかった。
当時はすでに結婚していた高田にとって、演劇だけで生活を成り立たせることは簡単ではなかった。夢を追うことと、家族を養うために収入を得ること。その間で現実的な選択を迫られることになる。
そこで高田は演劇から一度離れ、資格取得を目指すことにした。この判断が、宝石業界への就職につながっていく。
【宝石会社員時代】ジュエリーデザイナーから30歳で芸能界入りした転機
高田純次の若い頃を語るうえで、特に意外性があるのが宝石業界で働いていた経歴だ。
演劇を離れた高田は、宝石鑑定士という資格を知り、専門的な勉強を始めた。本人によると、資格は国家資格ではなかったものの、宝石の世界に興味を持つきっかけになったという。
その後、東京デザイナー学院でデザインを学んでいた経歴を評価され、宝石の卸会社からジュエリーデザイナーとして採用された。
会社員として宝石をデザインしていた
高田は宝石会社で、ジュエリーのデザインを担当した。本人は『POPEYE』のインタビューで、待遇も良く、自分がデザインしたジュエリーもおおむね好評だったと振り返っている。
つまり、高田純次は芸能界に入る前から、デザインの知識と実務経験を持つ社会人だった。
この時期は、単なるアルバイト生活ではなく、専門知識を身につけ、会社員として一定の収入を得ていた時代である。後に「適当男」と呼ばれる人物の経歴としては意外だが、実際にはデザインと宝石という専門分野に携わっていた。
柄本明・ベンガルとの偶然の再会が人生を変えた
転機が訪れたのは30歳の頃だった。
高田は会社の受付にいた女性を食事に誘い、新宿の居酒屋「ぼるが」に出かけた。そこで偶然、以前の演劇活動で知り合っていた柄本明やベンガルらと再会する。
彼らは劇団東京乾電池を旗揚げしたばかりで、演劇について熱心に語り合っていた。
高田は、目の前の仲間たちが芝居に真剣に取り組んでいる姿を見て、自分との違いを強く感じたという。
本人は2025年2月に出演したABCテレビの番組でも、この再会が会社員生活を辞めるきっかけになったと説明している。ベンガルから次の公演への出演を誘われ、30歳という年齢を最後の機会と考えて決断したという。
当時、高田には妻と幼い子どもがいた。マンション購入の頭金として貯めていた約200万円もあったが、安定した会社員生活を捨てて演劇の世界へ戻る決断は、家族にとっても大きな出来事だった。
1977年、高田は30歳で劇団東京乾電池に参加。柄本明、ベンガル、綾田俊樹らと演劇活動を始めた。
高田純次の若い頃から現在までの経歴・関係者一覧
学生時代から芸能界でのブレイクまでを整理すると、以下のようになる。複数の本人インタビューや出版社のプロフィール資料で確認できる主な転換点だ。
| 時期・年齢 | 出来事・所属 | 関係者・ポイント |
|---|---|---|
| 1947年 | 東京都で誕生 | 1月21日生まれ |
| 高校時代 | 都立府中高校 | 大学受験に挑戦するも不合格 |
| 1968年 | 東京デザイナー学院卒業 | グラフィックデザインを学ぶ |
| 1971〜72年ごろ | 自由劇場の研究生 | 串田和美らの演劇活動に触れる |
| 1970年代前半 | 劇団「うでくらべ」 | イッセー尾形、森田雄三らと活動 |
| 1970年代前半〜中盤 | 宝石卸会社に勤務 | 宝石鑑定士の勉強を経てジュエリーデザイナーに |
| 1977年・30歳 | 劇団東京乾電池に参加 | 柄本明、ベンガル、綾田俊樹らと活動 |
| 1980年 | 「笑ってる場合ですよ!」 | テレビのレギュラー出演で知名度を高める |
| 1982年 | 「笑っていいとも!」 | テレビ出演の幅を広げる |
| 1985年〜 | 「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」 | ビートたけしらと共演、全国的な人気を獲得 |
| 1980年代後半 | 「5時から男」 | グロンサンのCMで大ブレイク |
| 2015年 | 「じゅん散歩」開始 | テレビ朝日の三代目散歩人に就任 |
| 2026年 | 79歳 | 「じゅん散歩」などで活動を継続 |
この経歴から分かるのは、高田の芸能活動が一直線に進んだものではないということだ。デザイン、演劇、宝石業界、テレビと、異なる分野を経験しながら自分の居場所を見つけてきた。
【芸能界で大ブレイク】天才・たけしの元気が出るテレビと5時から男
30歳で劇団東京乾電池に参加した高田だったが、すぐに人気タレントになったわけではない。
劇団の公演や稽古を続けながら、生活費を稼ぐために肉体労働のアルバイトも経験した。本人は、貯金がすぐに底をつき、アルバイトをしながら舞台に立つ日々だったと振り返っている。
32歳前後からテレビ出演が増加
テレビでの活動が本格化するのは1980年前後だ。
1980年にはフジテレビ系「笑ってる場合ですよ!」にレギュラー出演。1982年には「笑っていいとも!」にも出演し、テレビタレントとしての認知度を高めていった。
しかし、高田の名前が全国的に広く知られるようになった大きなきっかけは、1985年に始まった日本テレビ系「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」だった。
ビートたけしや松方弘樹らが出演する人気番組で、高田は独特の間合いと予測できないリアクションを見せた。番組には最終的に11年間レギュラー出演し、バラエティータレントとしての地位を確立していく。
2025年のABCテレビ出演時には、当時のギャラについても告白。出演者の中でも十分な収入が得られず、長い間苦労していたと明かした。本人によれば、番組出演から数年後にギャラの相談をしたところ、別番組への出演機会を増やしてもらったという。
1980年代後半の「5時から男」で一躍有名に
高田純次の代表的なキャラクターを語るうえで外せないのが「5時から男」だ。
1980年代後半、栄養ドリンク「グロンサン」のテレビCMに出演。仕事が終わる夕方5時以降に元気になる男性を表現したキャッチコピーが話題になり、高田の顔と名前が広く浸透した。
1988年には「5時から男」が新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞。高田のタレントとしての人気を決定づけた。
本人は2025年の番組出演時、CM出演によって初めて大きな収入を得られたと振り返っている。劇団時代からアルバイトを続けてきた高田にとって、長い下積み生活から抜け出す重要な出来事だった。
興味深いのは、現在の「適当男」というイメージが最初から存在したわけではない点だ。舞台で培った表現力、バラエティーでの即興性、CMでのキャラクター性が積み重なり、高田独自のポジションが生まれたのである。
【2026年現在79歳】じゅん散歩で見せる高田純次の現在と素顔
1947年1月21日生まれの高田純次は、2026年11月現在79歳。30歳で劇団東京乾電池に参加してから約49年が経過した。
現在の代表的なレギュラー番組が、テレビ朝日系の「じゅん散歩」だ。
2015年に始まった「じゅん散歩」
「じゅん散歩」は2015年秋にスタートした街歩き番組で、高田は三代目散歩人を務めている。
テレビ朝日の番組公式情報によると、2026年現在も月曜日から金曜日まで放送され、公式サイトでは午前10時10分からの番組として案内されている。
番組のテーマは「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる」。高田が街を歩き、商店や施設、地元の人々と出会いながら、自由な会話を繰り広げる構成だ。
かつて夜のバラエティー番組で活躍した高田が、現在は幅広い年齢層に親しまれる昼前の顔になっている。番組では、相手の反応を見ながら軽妙な冗談を返す高田らしさが生きている。
散歩番組で見せる意外な真面目さ
小学館『サライ』の2023年のインタビューでは、高田は「じゅん散歩」が始まる前と現在とでは、歩くことへの感覚が変わったと話している。
番組開始当初は長時間歩く撮影が大変だったものの、収録を重ねるうちに身体が順応し、以前より軽快に歩けるようになったという。
また、街の人から声を掛けられた際にも、普通に返事をするのではなく、相手を笑わせるような冗談を返すのが高田流だ。
この姿勢は、若い頃から変わらないサービス精神の表れでもある。舞台では観客を楽しませ、バラエティーでは共演者や視聴者を笑わせ、現在は街の人々との会話で番組を成立させている。
若い頃と現在のキャラクターの変化
若い頃の高田は、大学受験の挫折や就職、劇団への参加など、人生の方向性を模索していた。30歳で会社員を辞めた際には家族を抱え、生活への不安もあった。
40歳前後でテレビやCMを通じてブレイクした後は、独特の軽さとユーモアを武器に、芸能界で長く活動してきた。
そして79歳の現在は、無理に若さを演出するのではなく、自然体で街を歩き、人と会話する姿が支持されている。
「適当」という言葉の裏には、場の空気を読む力、相手を緊張させない会話術、そして長年の舞台経験がある。若い頃に積み重ねた経験が、現在の高田純次の魅力を支えている。
【プロの結論】高田純次が遅咲きでも長く愛される3つの理由
高田純次の若い頃から現在までを振り返ると、単に30歳で芸能界に入った遅咲きのタレントという説明だけでは、その魅力を十分に理解できない。
長く第一線で活躍できた背景には、異なる分野で身につけた経験がある。
1. デザイン経験が生んだ独自の感性
東京デザイナー学院でグラフィックデザインを学び、宝石会社でジュエリーデザインを担当した経験は、高田の芸能活動とは無関係ではない。
デザインの仕事では、形や色、バランスを考える力が求められる。高田のファッションや小物への関心、独特の表現感覚にも、こうした経験が影響していると考えられる。
2. 演劇経験で培った即興力
自由劇場や東京乾電池での経験は、高田の芸能活動の土台になった。
舞台では、相手の演技や観客の反応を見ながら表現を変える必要がある。バラエティー番組で見せる絶妙な間や、相手の言葉を受けて返す冗談にも、長年の演劇経験が生かされている。
3. 年齢に合わせて活躍の場を変えてきた
若い頃は舞台、40歳前後はテレビやCM、そして現在は街歩き番組と、高田は活動の中心を少しずつ変えてきた。
「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」のような勢いのあるバラエティーで人気を獲得し、その後は「じゅん散歩」で自然体の魅力を発揮する。この変化は、長く芸能界で活躍するための一つのモデルともいえる。
高田の人生から読み取れるのは、若い頃に進路が定まらなかったとしても、その後の経験が無駄になるわけではないということだ。デザイン、会社員、演劇という異なる経験が、最終的には唯一無二のタレント像を作り上げた。
【よくある質問】高田純次の若い頃に関するFAQ
Q1:高田純次の若い頃の写真はどこで見られますか?
A1:2022年8月公開の『POPEYE』ウェブ版「二十歳のとき、何をしていたか?」に、東京デザイナー学院2年生だった20歳当時の写真が掲載されています。『サライ』の2023年のインタビュー記事でも学生時代の写真を確認できます。
Q2:高田純次は若い頃イケメンだったのですか?
A2:20歳当時の本人写真が公開されており、若い頃の姿を確認できます。「イケメン」という評価は個人の好みによりますが、芸能界で活躍する前の貴重な写真が残されています。
Q3:高田純次の出身高校はどこですか?
A3:東京都立府中高校です。高校時代には大学進学を目指して受験しましたが、現役時に5校、一浪後に10校を受験して、いずれも合格できなかったと本人が語っています。
Q4:高田純次は大学に進学したのですか?
A4:大学には進学していません。大学受験後、東京デザイナー学院のグラフィックデザイナー科に進み、1968年に卒業しました。
Q5:高田純次は芸能界に入る前、何の仕事をしていましたか?
A5:宝石の卸会社でジュエリーデザイナーとして勤務していました。宝石鑑定士の資格を取得するための勉強も経験しており、デザインしたジュエリーが好評だったと本人が振り返っています。
Q6:高田純次が劇団東京乾電池に入ったのは何歳ですか?
A6:30歳です。1977年に柄本明、ベンガルらが関わる劇団東京乾電池に参加しました。会社員時代に新宿の居酒屋で以前の演劇仲間と再会したことが、入団を決断するきっかけになりました。
Q7:高田純次は2026年現在何歳ですか?
A7:1947年1月21日生まれのため、2026年11月現在79歳です。
Q8:高田純次は現在も「じゅん散歩」に出演していますか?
A8:はい。2026年現在もテレビ朝日系「じゅん散歩」の三代目散歩人として出演しています。番組は月曜日から金曜日まで放送されています。
まとめ:高田純次の若い頃を知ると現在の魅力がもっと分かる
高田純次の若い頃は、現在の「テキトー男」というイメージだけでは語れない。都立府中高校で学び、大学受験に失敗した後、東京デザイナー学院でグラフィックデザインを修め、自由劇場で演劇と出会った。
その後、宝石会社のジュエリーデザイナーとして会社員生活を送りながらも、30歳で劇団東京乾電池に参加。柄本明やベンガルとの再会をきっかけに、再び演劇の世界へ飛び込んだ。
1985年の「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」、1980年代後半の「5時から男」で人気を獲得し、2015年からは「じゅん散歩」で幅広い世代に親しまれる存在となった。
2026年現在79歳。若い頃の写真に写る学生時代の姿から、宝石会社で働いていた会社員時代、30歳での決断、そして現在の自然体の散歩人までをたどると、一つの共通点が見えてくる。それは、環境が変わっても自分らしい表現を続けてきたことだ。
高田純次の人生は、若いうちに成功しなければならないという固定観念を覆す。遠回りした経験も、思いがけない出会いも、後になって自分だけの武器になる。79歳になった今も「じゅん散歩」で新しい出会いを楽しむ姿は、その人生を象徴している。
主な参考資料・取材記録
- 『POPEYE Web』2022年8月13日掲載「二十歳のとき、何をしていたか?/高田純次」
- 小学館『サライ』2023年11月掲載インタビュー
- 主婦の友社・高田純次プロフィール資料
- ORICON NEWS、日刊スポーツによる2025年2月の本人出演番組報道
- テレビ朝日「じゅん散歩」公式番組情報