東久邇家(ひがしくにけ)は、明治39(1906)年に東久邇宮稔彦王が創設した旧宮家の一つです。明治天皇の第九皇女・聡子内親王を妃に迎え、その長男である東久邇盛厚王は、昭和天皇の第一皇女・成子内親王と結婚しました。二代続けて天皇家の皇女を迎えたという、旧宮家の中でも特徴的な家系です。
1947年10月14日の皇籍離脱によって東久邇家は皇族ではなくなりましたが、皇室との血縁関係は現在も歴史的に重要な意味を持っています。さらに2026年10月24日には、旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎えることを可能にする改正皇室典範が施行されました。7月の国会答弁では、東久邇家の子孫についても具体的な世代関係が説明されています。
【東久邇家とは】稔彦王が創設した宮家の由来と皇室との血縁関係
東久邇家の歴史を理解するには、まず創設者である東久邇宮稔彦王の出自を知る必要があります。
久邇宮家から分かれて1906年に創設
東久邇宮稔彦王は、1887年12月3日生まれ。久邇宮朝彦親王の第九王子として誕生しました。
明治39(1906)年、稔彦王を初代として東久邇宮家が創設されます。つまり、東久邇家は独立した宮家として誕生したものの、その父系の出自は久邇宮家につながっています。
国立国会図書館の電子展示「近代日本人の肖像」でも、稔彦王が1906年に東久邇宮家を創設したことが紹介されています。
妃となったのは明治天皇の第九皇女・聡子内親王
稔彦王の妃は、明治天皇の第九皇女である聡子内親王(としこないしんのう)です。幼少時の称号は泰宮(やすのみや)で、1915年に稔彦王と結婚しました。
結婚後は東久邇聡子と称されました。検索されることのある「東久邇宮聡子内親王」という表現については、稔彦王の妃である聡子内親王を指すものとして理解すると正確です。
この婚姻によって、東久邇宮家は明治天皇の皇女を迎えた宮家となりました。
ただし、ここで区別したいのが、皇室との婚姻による血縁関係と、東久邇家の父系の系譜です。稔彦王の父系は久邇宮家に連なり、聡子内親王との婚姻によって明治天皇家との親族関係が生まれました。
【東久邇宮稔彦王の生涯】皇族初の首相と終戦直後の政治的役割
東久邇家の知名度を大きく高めた人物が、創設者の東久邇宮稔彦王です。
稔彦王は皇族であると同時に陸軍軍人でもあり、フランス留学を経験するなど、当時の皇族の中でも異色の経歴を持っていました。
陸軍大将を経て第43代内閣総理大臣に就任
稔彦王は陸軍大学校を卒業し、フランス留学後も軍務に従事しました。航空本部長、第2軍司令官、防衛総司令官などを歴任し、1939年には陸軍大将となっています。
大きな転機は1945年8月でした。日本が終戦を迎えた直後の8月17日、稔彦王は第43代内閣総理大臣に就任します。
皇族が首相を務めた初めての内閣であり、敗戦後の国家運営と終戦処理という極めて難しい課題を担いました。
国立国会図書館の解説によると、稔彦王は連合国に対する降伏文書の調印や陸海軍の解体などに対応しました。しかし、占領政策をめぐる連合国側との対立などもあり、同年10月9日に総辞職。首相在任期間は54日間でした。
首相退任後も続いた波乱の人生
稔彦王は1946年に公職追放となり、翌1947年には皇族の身分を離れました。その後は東久邇稔彦と名乗り、一般国民として生活することになります。
1990年1月20日、102歳で死去しました。
東久邇宮家の歴史を考える際、稔彦王の存在は欠かせません。宮家を創設した人物であるだけでなく、戦前の皇族軍人から戦後の民間人へと立場が変わった、時代の転換を象徴する人物でもありました。
【東久邇家の家系図】盛厚王と成子内親王の結婚で深まった皇室との関係
東久邇家を語るうえで、もう一つ重要なのが二代目につながる婚姻です。
稔彦王の長男・東久邇盛厚王は、昭和天皇の第一皇女である成子内親王と結婚しました。これにより、東久邇宮家は明治天皇と昭和天皇、双方の皇女を妃として迎えた家系となりました。
盛厚王と成子内親王の婚姻は1943年
東久邇盛厚王は1916年5月6日生まれ。稔彦王と聡子内親王の長男です。
結婚相手となった成子内親王は、1925年生まれで、昭和天皇の第一皇女でした。幼少時の称号は照宮(てるのみや)です。
両者の婚姻は1943年10月13日に行われました。宮内庁関係の記録や『入江相政日記』などにも婚儀の記録が残っています。
結婚後、成子内親王は東久邇成子と称しました。夫妻の間には3男2女が生まれています。
東久邇家の家系図・主要人物の関係一覧
主要人物の関係を整理すると、次のようになります。
| 人物 | 東久邇家との関係 | 主な事実・皇室との関係 |
|---|---|---|
| 久邇宮朝彦親王 | 稔彦王の父 | 久邇宮家の出自につながる人物 |
| 東久邇宮稔彦王 | 初代当主 | 1906年に宮家創設。第43代内閣総理大臣 |
| 聡子内親王 | 稔彦王の妃 | 明治天皇の第九皇女。1915年に結婚 |
| 東久邇盛厚王 | 稔彦王の長男 | 1916年生まれ。1943年に成子内親王と結婚 |
| 東久邇成子内親王 | 盛厚王の妃 | 昭和天皇の第一皇女。1961年7月23日逝去 |
| 東久邇信彦 | 盛厚王と成子の長男 | 昭和天皇の孫。2019年3月20日逝去 |
| 東久邇文子 | 盛厚王と成子の長女 | 1946年生まれ |
この表は東久邇家の主要な系譜を示したものです。すべての子孫や分家を網羅する完全な戸籍上の家系図ではありません。
成子内親王は35歳で逝去
成子内親王は、皇室を離れた後も昭和天皇の長女として知られ、一般家庭の母として3男2女を育てました。
しかし、1961年7月23日、35歳で逝去します。
放送ライブラリーに保存されている当時のニュース映像の記録にも、成子さんが3男2女の母として歩んだ生涯が紹介されています。
その後、盛厚は再婚していますが、成子内親王との間に生まれた子どもたちが東久邇家の歴史を受け継ぐ重要な世代となりました。
【1947年の皇籍離脱】東久邇家が皇族ではなくなった経緯
東久邇家の歴史における最大の転換点が、1947年10月14日の皇籍離脱です。
この出来事は東久邇家だけの問題ではありません。戦後の皇室制度の再編によって、旧11宮家が一斉に皇族の身分を離れた歴史的な出来事でした。
1947年10月13日の皇室会議が重要な節目
1947年5月3日、日本国憲法と新しい皇室典範が施行されました。戦前とは異なる憲法体制のもとで、皇族の範囲や身分のあり方も再整理されることになります。
10月13日には皇室会議で旧宮家の皇籍離脱が審議され、翌14日に手続きが実施されました。
国立国会図書館の資料によると、このとき皇族の身分を離れたのは、秩父宮・高松宮・三笠宮の3宮家などを除く旧11宮家の51人です。
2026年7月15日の参議院特別委員会でも、政府参考人はこの離脱について、皇室典範の第11条、第13条、第14条に基づく手続きだったと説明しています。
皇籍離脱の背景には戦後の社会・経済的変化もあった
2020年2月19日の衆議院予算委員会では、宮内庁側から当時の皇室会議における説明内容が紹介されました。
その説明では、終戦直後から、皇族の中に皇籍を離れて一国民として国家の再建に努めたいという意思を表明する人々がいたことが述べられています。
「一国民として国家の再建に努めたい」
これは当時の皇室会議で示された説明を、政府参考人が国会で紹介したものです。
一方、戦後の占領政策、皇族財産を取り巻く環境の変化、皇室制度の縮小なども、この時代を理解するうえで重要な背景となります。
したがって、東久邇家の皇籍離脱は、単純に一家が自発的に皇族を辞めたというだけでは説明できません。戦後の制度改革と社会状況が重なった結果でした。
東久邇家の人々も一般国民へ
皇籍離脱によって、稔彦王は東久邇稔彦、盛厚王は東久邇盛厚と名乗るようになりました。
昭和天皇の第一皇女だった成子内親王も、東久邇成子として一般国民の立場になりました。
つまり、皇室との血縁関係がなくなったわけではありません。変わったのは、法律上の皇族としての身分です。
この区別は、現在の旧宮家の皇籍復帰問題を理解する際にも重要です。
【東久邇家の子孫は現在どうしている?】信彦氏の生涯と皇室との関係
東久邇家の子孫について調べる人が特に関心を持つのが、昭和天皇の孫にあたる東久邇信彦氏と、その後の家系です。
東久邇信彦氏は昭和天皇の孫
東久邇信彦氏は、1945年3月10日生まれ。盛厚王と成子内親王の長男です。
母親が昭和天皇の第一皇女であることから、信彦氏は昭和天皇の孫にあたります。
2020年2月19日の衆議院予算委員会では、宮内庁の政府参考人が、成子内親王と盛厚王の子である信彦氏は天皇陛下のいとこにあたると説明しました。
信彦氏は大学卒業後、三井銀行に勤務し、日本タイ協会常務理事、全日本野球会議名誉会長などを務めました。
2019年3月20日、74歳で逝去しています。死去については、同氏が名誉最高顧問を務めていた国際安心安全協会も公表しています。
東久邇家の子孫は皇族なのか
答えは、現在の制度上、皇族ではありません。
信彦氏自身も1947年の皇籍離脱によって一般国民となっています。その子孫も、出生によって自動的に皇族の身分を取得するわけではありません。
ここで注目されるのが、2026年7月15日の参議院皇室典範等改正特別委員会における宮内庁次長の答弁です。
政府参考人の緒方禎己氏は、旧宮家の子孫の把握状況について、次のように説明しました。
「宮内庁においては、昭和二十二年における皇籍離脱後の旧宮家の子孫については把握していない」
加えて、邦家親王を起点とする世代関係について、東久邇宮家では皇籍離脱した信彦王が四世にあたり、その子孫は五世以上になると説明しています。
この答弁は、東久邇家の現在を考えるうえで非常に重要です。
子孫が存在しないという意味ではありません。宮内庁が皇籍離脱後の子孫を公的に把握していないという意味です。
皇室との親戚関係と皇族の身分は別問題
東久邇家は、現在の皇室と複数の婚姻関係を通じて結び付いています。
特に成子内親王は上皇陛下の姉にあたり、その子である信彦氏は現在の天皇陛下のいとこにあたると、政府が国会で説明しています。
また、稔彦王の妃である聡子内親王も明治天皇の皇女でした。
ただし、親戚関係があることと、皇族としての資格を持つことは同じではありません。東久邇家の歴史的な血縁関係を理解する際には、婚姻による親族関係と父系の血統、そして現在の法律上の身分を分けて考える必要があります。
【2026年最新】東久邇家の皇籍復帰問題と旧宮家男系男子の養子制度
2026年の東久邇家をめぐる最大の変化は、皇室典範の改正です。
旧宮家の男系男子を皇族の養子として迎える制度が法律上整備され、1947年の皇籍離脱以降、長く議論されてきた問題が新しい段階に入りました。
2026年7月17日に改正皇室典範が成立
2026年6月30日、政府は皇室典範等の一部を改正する法律案を国会に提出しました。
その後、国会審議を経て、7月17日に成立。7月24日に公布され、10月24日に施行されました。
改正の柱は大きく二つです。
第一に、内親王・女王は一般男性と結婚しても皇族の身分を保持できるようになりました。
第二に、一定の条件を満たす旧皇族の男系男子を、皇族の養子として迎えることが可能になりました。
旧宮家の男系男子が養子となるための条件
宮内庁が公表している改正内容では、養子制度の対象には明確な条件が設けられています。
- 皇室典範による皇族男子であった者の嫡男系嫡出の子孫であること。
- 現在、皇族ではない男子であること。
- 15歳以上であること。
- 配偶者がいないこと。
- 子どもがいないこと。
- 皇嗣・皇嗣妃を除く対象皇族が、皇室会議の議を経て養子とすること。
つまり、旧宮家の子孫であれば誰でも自動的に皇族になれるわけではありません。
本人の条件に加え、養親となる皇族や皇室会議による手続きも必要です。
養子本人には皇位継承資格がない
今回の改正で特に注意したいのが、養子として皇族になった男性本人には皇位継承資格が認められないという点です。
一方、その養子の後に生まれた子どもについては、皇族として出生することになり、男系男子であれば皇室典範の規定に基づいて皇位継承資格を持ち得ます。
この点についても、2026年7月15日の参議院特別委員会で木原稔内閣官房長官が説明しています。
したがって、今回の制度は、旧宮家の男性本人を直ちに皇位継承者とする仕組みではありません。皇族数の確保と、将来的な皇統の維持を意識した制度設計です。
東久邇家の子孫は皇籍復帰の対象になり得るのか
東久邇家の父系子孫は、旧皇族だった男性の嫡男系嫡出の子孫という条件に関係する系譜です。そのため、個々人が法律上の要件を満たせば、養子制度の対象となる可能性はあります。
ただし、東久邇家全体が復帰するわけではありません。対象となるのは条件を満たした個人であり、皇室会議を経た養子縁組が必要です。
また、2026年7月15日の政府答弁で、宮内庁は皇籍離脱後の子孫を把握していないと説明しています。このため、東久邇家の現在の子孫のうち誰が条件に該当するのかを、公開された公的資料だけで特定することはできません。
2026年11月2日時点では、東久邇家の特定の人物について皇族としての養子縁組が成立したとする公表も確認できません。
今回の法改正によって、東久邇家の皇籍復帰が自動的に実現したと理解するのは正確ではありません。法律上の可能性が整備された段階と、実際に誰かが皇族になる段階は、明確に区別する必要があります。
2026年の国会答弁で明らかになった旧宮家四家
2026年7月15日の参議院特別委員会では、政府参考人が旧宮家四家として久邇家、賀陽家、東久邇家、竹田家を挙げました。
また、旧宮家の男系男子について議論される際に、これらの家系の世代関係が取り上げられました。
東久邇家については、信彦王が四世、その子孫が五世以上という説明がなされています。
この答弁が示すのは、旧宮家の男系男子をめぐる議論が、抽象的な歴史論だけではなく、実際の系譜と現行法の条件を照合する段階に入っているということです。
【東久邇家に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:東久邇家は現在も皇族なのですか?
A1:いいえ。1947年10月14日に皇籍を離脱しており、現在は皇族ではありません。皇室との血縁関係が残っていても、法律上の皇族身分とは別です。
Q2:東久邇家は昭和天皇とどのような関係がありますか?
A2:東久邇盛厚王が昭和天皇の第一皇女・成子内親王と1943年に結婚しました。その長男の東久邇信彦氏は昭和天皇の孫で、現在の天皇陛下のいとこにあたります。
Q3:東久邇家の子孫は現在何人いるのですか?
A3:宮内庁は1947年の皇籍離脱後の旧宮家の子孫を把握していないと2026年7月15日の国会で答弁しています。そのため、現在の子孫の総人数を公的資料から確定することはできません。
Q4:東久邇家の子孫は2026年の改正皇室典範で皇族に戻れますか?
A4:一定の条件を満たす男系男子であれば、皇族の養子となる可能性があります。ただし、15歳以上、配偶者と子がいないことなどの条件があり、皇室会議の議も必要です。家全体が自動的に皇族へ戻る制度ではありません。
Q5:東久邇宮聡子内親王とは誰ですか?
A5:明治天皇の第九皇女である聡子内親王を指す表現です。1915年に東久邇宮稔彦王と結婚し、東久邇家の初代当主の妃となりました。
まとめ:東久邇家の歴史と2026年以降の皇室制度を正しく理解する
東久邇家は、1906年に東久邇宮稔彦王が創設した宮家です。明治天皇の皇女・聡子内親王を妃に迎え、次代の盛厚王も昭和天皇の第一皇女・成子内親王と結婚しました。二代続けて皇室の皇女を迎えたことが、この家系の大きな特徴です。
しかし、1947年10月14日の皇籍離脱によって、東久邇家は一般国民となりました。昭和天皇の孫である東久邇信彦氏も、2019年に74歳で亡くなっています。
2026年には改正皇室典範が10月24日に施行され、旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎える制度が整いました。東久邇家の子孫も、個々の条件によっては制度の対象となる可能性があります。
【プロの結論】
東久邇家を理解するうえで、押さえておきたい判断基準は三つあります。
- 血縁関係:明治天皇・昭和天皇の皇女との婚姻によって、現在の皇室と深い親族関係を持つ。
- 皇族としての身分:1947年の皇籍離脱以降、一般国民であり、血縁だけで皇族に戻ることはできない。
- 2026年の制度:改正皇室典範によって一定の男系男子を養子として迎える道が開かれたが、個人ごとの条件と正式な手続きが必要。
東久邇家の歴史は、明治・昭和の皇室と戦後日本の制度改革を結び付ける重要な題材です。2026年の改正法施行によって、その子孫と皇室との関係は新たな局面を迎えました。
今後注目すべきなのは、実際に養子制度がどのように運用されるのか、対象者の意思や皇室会議の判断がどう示されるのかという点です。東久邇家の皇室との血縁関係、1947年の皇籍離脱、そして現在の法律上の資格を分けて理解することが、この問題を正確に捉えるための出発点となります。
主な確認資料:国立国会図書館「近代日本人の肖像」、宮内庁「ご結婚により、皇族の身分を離れられた内親王及び女王」「皇室典範等の一部を改正する法律について」、第201回国会衆議院予算委員会会議録、第221回国会参議院皇室典範等の一部を改正する法律案特別委員会会議録、国際安心安全協会の東久邇信彦氏訃報。
編集上の重要な補足: 2026年の国会答弁で特に重要なのは、宮内庁が東久邇家の皇籍離脱後の子孫を把握していないと明言した点です。これは「子孫がいない」という意味ではなく、現在の候補者を宮内庁が公的に特定・管理していないという意味です。記事の皇籍復帰に関する説明では、この区別が重要になります。