散切り頭(ざんぎりあたま)は、明治初期に流行した男性の髪型です。
特徴は、次の3点にあります。
- 額から頭頂部にかけての月代を剃らない。
- 頭髪を襟元付近で切りそろえる。
- 髪を結い上げず、後ろへなでつける。
江戸時代の男性に一般的だった髷を結う習慣をやめ、髪を自然に下ろすスタイルです。
「散切り」という名前の由来
「散切り」は、散切・斬切・残切などとも表記されます。
言葉の歴史を調べると、興味深い事実があります。散切りという髪型の呼び名は、明治4年に突然生まれたものではありません。
『精選版 日本国語大辞典』には、江戸時代の1682年に刊行された浮世草子『好色一代男』にも、髪をなでつけた状態を表す「ざん切」の用例が記録されています。
つまり、言葉そのものには明治以前の歴史があり、明治初期には新しい男性の髪型を表す言葉として広く定着したのです。
また、「じゃんぎり」と呼ばれることもありました。
散切り頭には複数のスタイルがあった
散切り頭と聞くと、現代の短髪やスポーツ刈りのような髪型を想像する可能性があります。
しかし、実際の明治初期には、髪の長さや整え方に違いがありました。
弘前市立弘前図書館の郷土史資料によれば、当時の散切りには、短く刈り込んだものと、比較的長い髪をなでつけたものの両方が存在していました。
これは、長年続いた髷の習慣から新しい髪型へ移行する途中だったためです。
散切り頭は、最初から全国共通の完成されたヘアスタイルだったわけではありません。人々が新しい時代の身だしなみを模索するなかで、さまざまな形が生まれていました。
【丁髷との違い】江戸時代の男性の髪型はどう変わった?
散切り頭と丁髷の最大の違いは、月代を剃るかどうか、そして髪を結い上げるかどうかです。
江戸時代の丁髷は、額から頭頂部にかけての髪を剃り、残った髪をまとめて頭頂部で結い上げる髪型でした。
一方、散切り頭は月代を剃らず、髷を作らないことが基本です。
丁髷が長く定着した理由
丁髷の歴史は、武士の生活や日本の伝統的な身だしなみと深く関係しています。
國學院大學の根岸茂夫名誉教授による解説では、髷の原型は、冠や烏帽子の中に髪をまとめて収める習慣にさかのぼると説明されています。
その後、武士の時代に月代を剃る風習が広まり、近世には庶民にも定着しました。
つまり、丁髷は単なるファッションではありません。身分や時代の習慣と結び付いた、社会的な意味を持つ髪型だったのです。
丁髷と散切り頭の比較
| 比較項目 | 丁髷 | 散切り頭 |
|---|---|---|
| 主な時代 | 江戸時代 | 明治初期 |
| 月代 | 剃る | 剃らない |
| 髪のまとめ方 | 頭頂部で結い上げる | 結わずに下ろす |
| 髪の長さ | 髷を作れる長さ | 短髪から長めまで多様 |
| 外見の印象 | 伝統的・武士的 | 近代的・西洋風 |
| 象徴する時代 | 江戸の社会秩序 | 文明開化・近代化 |
散切り頭への変化は、見た目だけの問題ではありませんでした。
それまで身分や伝統を感じさせていた髪型から、新しい時代の個人の身だしなみへと、男性の外見に対する価値観が変わり始めたのです。
【1871年から1873年へ】散髪脱刀令と明治天皇の断髪が変えた歴史
散切り頭の歴史を語るうえで欠かせないのが、1871年の散髪脱刀令と1873年の明治天皇の断髪です。
この2つの出来事によって、散切り頭は個人の新しい髪型から、国の近代化を象徴する風俗へと位置付けられていきました。
1871年8月9日、散髪脱刀令が公布される
1871年(明治4年)8月9日、政府は太政官布告によって散髪や脱刀などを本人の自由とする方針を示しました。
一般に「散髪脱刀令」と呼ばれる法令です。
当時の布告には、次のような文言がありました。
散髪制服略服脱刀共可爲勝手事
これは、散髪や制服・略服の着用、刀を帯びないことなどを自由とする趣旨です。
重要なのは、この法令が全国民に髪を切るよう強制したものではないという点です。
現在では「断髪令」という名前で説明されることもありますが、実際には断髪を認め、奨励する方向へ政策を転換したものでした。
この違いを理解しておくと、明治初期の断髪の歴史がより正確に見えてきます。
1873年3月20日、明治天皇が断髪する
散切り頭の普及を大きく後押ししたのが、明治天皇の断髪です。
明治神宮の公式FAQによれば、明治天皇が髪を切ったのは1873年(明治6年)3月20日です。
明治天皇が自ら新しい髪型を採用したことは、社会に大きな影響を与えました。
それまで髷を切ることに抵抗を感じていた人々にとって、天皇の断髪は新しい風俗を受け入れる一つのきっかけになったのです。
ただし、明治天皇が日本で最初に断髪した人物だったわけではありません。明治神宮の解説でも、幕末の坂本龍馬や伊藤博文など、明治以前に髷を切った武士がいたことが紹介されています。
天皇の断髪の大きな意味は、先駆者だったことよりも、近代化を進める国家の象徴が自ら新しい風俗を取り入れたことにありました。
散切り頭の歴史と関係する人物・出来事の年表
| 年代 | 関係する人物・出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1871年5月 | 『新聞雑誌』第2号 | 散切り頭を文明開化と結び付ける流行歌が掲載される |
| 1871年8月9日 | 明治政府・散髪脱刀令 | 散髪や脱刀を自由とする方針が示される |
| 1871年以降 | 岩倉具視・公家など | 政府や上層社会で断髪が進む |
| 1873年3月20日 | 明治天皇 | 自ら断髪し、散切り頭の普及を後押しする |
| 1875年頃 | 東京の男性 | 散髪が約25%、丁髷が約75%とされる |
| 1881年頃 | 東京の男性 | 散髪が約80%に達したとされる |
| 1888~1889年頃 | 東京の男性 | 丁髷姿がほとんど見られなくなる |
この年表から分かるのは、法令の公布、天皇の断髪、一般社会への普及が、それぞれ異なる段階で進んだということです。
なお、普及率は後述する当時の新聞記事をもとにした東京の推計であり、全国を対象にした統計ではありません。
【文明開化の象徴】「ザンギリ頭をたたいてみれば」の本当の意味
散切り頭を象徴する言葉として、現在まで語り継がれているのが次の一節です。
ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする。
この言葉は、明治初期に流行した都々逸(どどいつ)という俗謡の一節です。
都々逸は七・七・七・五の音数律で構成される歌で、当時の世相や人々の感情を反映していました。
木戸孝允と流行歌の関係
アジア歴史資料センターの解説によると、この歌は維新の三傑の一人である木戸孝允が、風俗の近代化を訴えるために新聞に掲載したと伝えられています。
一方、江戸東京博物館のレファレンス資料では、この有名な詞が1871年5月の『新聞雑誌』第2号に掲載され、流行したことが紹介されています。
注目したいのは、散髪脱刀令が公布された1871年8月よりも前に、この歌が広まっていたという点です。
つまり、散切り頭への関心は政府の法令によって突然生まれたのではありません。幕末から続いていた西洋文化への関心や、社会の変化を背景に、すでに新しい髪型への期待が高まっていたのです。
なぜ散切り頭が文明開化の象徴になったのか
理由は、髪型が誰の目にも分かりやすい外見の変化だったからです。
明治政府は、政治制度や軍事制度、教育、交通など、さまざまな分野で西洋の制度や文化を取り入れていました。
髪型もその一つです。
それまでの丁髷は、江戸時代の社会や身分秩序を感じさせるものでした。一方、散切り頭は西洋風の外見を取り入れた新しい時代の象徴として受け止められました。
当時の人々にとって、髪を切ることは、単に身だしなみを変えるだけではありません。古い習慣から離れ、新しい時代を生きる意思を外見で表現する行為でもあったのです。
歌舞伎にも登場した散切り頭
散切り頭は、当時の芸能にも影響を与えました。
国立劇場の文化デジタルライブラリーによれば、明治期の新しい制度や職業、社会風俗を取り入れた歌舞伎作品は「散切物」と呼ばれました。
その代表的な作者の一人が河竹黙阿弥です。
東京では1873年に『東京日新聞』が上演され、新聞や電信など、当時の新しい社会現象を取り入れた演出が行われました。
その後も『人間万事金世中』(1879年)などの散切物が登場しています。
散切り頭は、現実の街中だけでなく、歌舞伎という大衆芸能の世界でも、新時代を表現する重要な要素になっていたのです。
【なぜすぐには普及しなかった?】丁髷を捨てられなかった人々の事情
散切り頭は文明開化の象徴として歓迎された一方、法令が出た直後から日本中の男性が断髪したわけではありません。
むしろ、当時の記録を見ると、丁髷から散切り頭への移行には相当な時間がかかったことが分かります。
1875年頃の東京でも丁髷が多数派だった
国立民族学博物館の「近代日本の身装文化」では、1898年8月7日の『時事新報』に掲載された「理髪の沿革」をもとに、東京市内の髪型の変化が紹介されています。
その推移は次のとおりです。
- 1875年頃:25%
- 1877年頃:60%
- 1881年頃:80%
- 1883年頃:90%
さらに1888~1889年頃には、東京で丁髷姿をほとんど見かけなくなったとされています。
この数字は、東京市内の当時の状況を示す新聞記事に基づく推計です。日本全国の男性を対象にした調査結果ではありません。
それでも、散髪が普及するまでに十年以上の時間がかかったことを理解するうえで、重要な資料です。
理由1:長年の習慣を簡単には変えられなかった
丁髷は、江戸時代の男性にとって長く親しんできた髪型でした。
とりわけ武士や商人、職人など、それぞれの社会的立場と結び付いた身だしなみでもありました。
そのため、政府が散髪を認めても、すぐに髷を切ることに抵抗を感じる人がいたのです。
明治初期の人々にとって、断髪は現代人が美容院で髪型を変えるような気軽な選択ではありませんでした。
理由2:周囲の目や職場の価値観が影響した
国立民族学博物館の資料には、明治6~10年代の新聞記事をもとにした興味深い事例が紹介されています。
1876年には、芝飯倉の呉服屋で奉公人4人が散髪を希望し、主人が商売に合わないとして反対したものの、4人が断髪したため暇を出されたという話が記録されています。
また、1877年には、日本橋の商店で従業員が主人に相談せず散髪したことをめぐり、主人が怒ったという記事も紹介されています。
これらの事例からは、髪型が個人の好みだけで決められるものではなく、商売上の信用や職場の慣習とも結び付いていたことが分かります。
理由3:地域によって普及の速度が違った
東京などの都市部と地方では、文明開化の新しい風俗に触れる機会が異なっていました。
弘前市立弘前図書館の郷土史資料には、明治5年の新聞に「秋田ヨリ北ニハ士族一人モ断髪セズ」と報じられたことが紹介されています。
また、弘前周辺では、洋式軍事訓練を受けた兵士や地域の指導的立場にあった人々が断髪を先導しました。
つまり、散切り頭の普及には、都市と地方の違いだけでなく、軍隊や行政、地域の有力者など、身近な社会環境も影響していたのです。
【よくある誤解を検証】散切り頭と断髪令の歴史で間違えやすいポイント
散切り頭の歴史には、現在の説明で混同されやすいポイントがあります。ここでは代表的な4つを整理します。
誤解1:1871年の断髪令で全国民が強制的に髪を切らされた?
これは正確ではありません。
1871年8月9日の散髪脱刀令は、散髪などを自由とする趣旨の法令でした。
ただし、政府や地方行政による断髪の奨励はあり、地域によっては強い働きかけも行われています。
したがって、法律上の自由と、社会的な普及政策は分けて考える必要があります。
誤解2:散切り頭はすべて西洋人と同じ短髪だった?
これも違います。
明治初期の散切り頭には、短く刈った髪型だけでなく、長い髪を後ろへなでつけたスタイルもありました。
西洋風の要素を取り入れた髪型ではありますが、現代の短髪と完全に同じものではありません。
誤解3:明治天皇が日本で最初に断髪した?
明治天皇が断髪する以前にも、坂本龍馬や伊藤博文など、髷を切った武士は存在していました。
明治天皇の断髪は、最初の事例というよりも、社会全体への影響力が大きかった出来事です。
誤解4:散切り頭が広まったのは1871年だけの影響?
実際には、幕末からの西洋文化との接触、明治政府の近代化政策、軍人や官員による先行的な採用、流行歌や歌舞伎などの大衆文化が複合的に影響しています。
法令だけで髪型が変わったわけではありません。
このように、散切り頭の歴史は、政治的な制度改革と日常生活の変化が結び付いた事例として理解すると、より深く読み解けます。
【散切り頭とは】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:散切り頭の正しい読み方は何ですか?
散切り頭は「ざんぎりあたま」と読みます。「じゃんぎり」と呼ばれることもあります。
Q2:散切り頭が流行したのは何年頃ですか?
1871年(明治4年)の散髪脱刀令以降に広まり、1873年(明治6年)の明治天皇の断髪が普及を後押ししました。東京では1880年代に大きく普及しました。
Q3:散切り頭と丁髷の一番の違いは何ですか?
丁髷は月代を剃って髪を頭頂部に結い上げますが、散切り頭は月代を剃らず、髪を襟元で切って後ろへなでつけます。
Q4:散髪脱刀令は断髪を義務付けた法律ですか?
いいえ。1871年8月9日の布告は散髪や脱刀などを自由とするもので、全国民への断髪強制を定めた法律ではありません。
Q5:「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」は誰が作った言葉ですか?
明治初期に流行した都々逸です。アジア歴史資料センターの解説では、木戸孝允が習俗の近代化を訴えるため新聞に掲載したと伝えられています。
【プロの結論】散切り頭は明治日本の近代化を映す歴史的な髪型
散切り頭の歴史を振り返ると、髪型の変化が社会の価値観や政治、文化と密接につながっていたことが分かります。
1871年の散髪脱刀令によって断髪が認められ、1873年の明治天皇の断髪によって社会的な後押しが生まれました。
しかし、長く続いた丁髷の習慣は簡単にはなくならず、一般男性への普及には十年以上の時間が必要でした。
特に重要なのは、散切り頭を単なる西洋風のヘアスタイルとして捉えないことです。
その背景には、次の3つの歴史的な変化がありました。
1. 政治の近代化: 明治政府が旧来の身分制度や生活習慣を見直したこと。
2. 文化の近代化: 西洋の服装や生活様式を積極的に取り入れたこと。
3. 人々の意識の変化: 伝統を守る価値観と、新しい時代に適応する価値観が交差したこと。
「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という言葉が今日まで残っているのは、散切り頭が当時の人々にとって、目に見える時代の転換点だったからでしょう。
散切り頭とは、髪型の変化を通じて明治維新後の日本社会の大きな転換を読み解ける、文明開化を象徴する歴史的なスタイルなのです。